【斎王とは】神社検定で出題!幻の都・斎宮での生活と選ばれ方

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管理人
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こんにちは、管理人の火沢火洋です。

皆さんは「斎王」という存在をご存じですか?

天皇に代わって、神宮祭祀における重要な役割を果たした斎王。

その制は途絶えて久しく、斎王の忌み籠った「斎宮」は幻の都と言われてきました。

こま狐
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ですが、近年の調査研究でその全貌が少しずつ明らかに…。

注目度の高まりも相まって、2026年の神社検定1級では斎王に関する問題が出題されました。

そこで本記事では、筆者が神社検定1級の受験にあたり勉強した内容を元に、斎王に関する概要や任務、生活について紹介します。

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斎王とは

斎王(さいおう)とは、古代から中世にかけて、天皇に代わり神宮の祭祀に仕えた神聖な存在。

御代替わりごとに未婚の皇族女性から“卜定(ぼくじょう)”と呼ばれる占いによって選ばれました。

本来は天皇自ら神恩に感謝を捧げ、国の平安を祈る「親祭」である神宮の祭祀ですが、実際は斎王が祈りを捧げていたのです。

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これは”穢れ”を避けることと、政治の中心の都を離れられないことが理由。

古代の日本では、死や病気、血は「穢れ(気枯れ=パワーが落ちた状態)」とされていました。

神さまは”穢れ”を嫌うため、もっとも清らかな斎王しか神様の前に立てなかったのです。

また、伊勢神宮は都(京都など)から遠く離れており、天皇が現地に赴くと長期間都を留守にして政治が止まってしまうデメリットがありました。

そこで天皇に代わって伊勢神宮に派遣されて祭祀を執り行った存在、それが斎王なのです。

初代の斎王と皇大神宮の創祀

その昔、斎王は“御杖代(みつえしろ)”と称されていました。

”御杖代”とは、天照大御神の寄りかかる御杖代わりとの意味合い。

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これは神宮の創祀と関係があります。

神宮のご祭神である皇祖・天照大御神はもともとは宮中に祀られていました。

しかし日本書記によると、第10代崇神天皇の御代、そのご神体は皇女・豊鍬入姫命(よとすきいりひめのみこと)に託され、皇居を出て倭の笠縫邑に遷し祀られたのです。

第11代垂仁天皇の御代には、ご神体は皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)に託され、よりふさわしい鎮座地を求めて諸国を遷幸した末に、伊勢国の五十鈴川の川上に奉斎されました。

こま狐
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これが皇大神宮の創祀で約2000年前のこと。

これにより、御杖代の初代は豊鍬入姫命、次代が倭姫命とみなされています。

斎王の制度化と実在の記録

斎王による神宮祭祀の奉仕が制度化されたのは、律令制が確立された飛鳥~奈良時代。

“実在を確認できる”最初の斎王は、第40代天武天皇が即位した673年に就任した大来皇女(おおくのひめみこ)です。

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以降、斎王の制は約660年にわたって続きました。

そして、南北朝時代の第96代後醍醐天皇の御代の祥子内親王を最後に廃絶。

正確な人数は不明ですが、史上60人余りの斎王が存在したと考えられています。

斎王の選ばれ方と斎宮に入るまで

斎王の制度は、平安時代中期に編纂された律令の施行規則『延喜式』に記載されています。

それによると、天皇が即位すると未婚の内親王または女王から”卜定”と呼ばれる占いの儀式により斎王が選ばれました。

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記録によると卜定された時点の斎王の年齢は2~29歳まで。

卜定されると、斎王は自邸を出て宮中の一室に定められた「初斎院」に入り、翌年秋には都の郊外に設けられた「野宮(ののみや)」と呼ばれる仮宮に移り、潔斎精進の日々を送りました。

斎王が都を離れるのは、野宮に入った翌年9月、卜定から2年以上経過した後のこと。

こま狐
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神宮の恒例祭祀で最も重要な神嘗祭に合わせ、都を発ち伊勢へ向かいます。

斎王がその任を解かれるのは、御代替わりや身内の不幸、本人の病などの場合のみ。

これが天皇と永遠の別れとなることもあり、旅立ちの時に斎王は振り返らず出発する決まりだったそうです。

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ここから都~伊勢へ向かう斎王一行の旅路が始まります。

「葱華輦(そうかれん)」という輿に乗った斎王のほか、見送りの勅使「長奉送使(ちょうぶそうし)」、斎王に仕える官人・官女など、総勢500人超の一行の旅は「群行」と呼ばれました。

群行は5泊6日の道程で、途上、斎王は「六処境川(ろくしょのさかいのかわ)」とされる6か所の川で禊を繰り返しながら、伊勢国多気郡に置かれた宮殿「斎宮」に入ったのです。

斎王の任務

御杖代たる斎王の任務は、天皇に代わって神宮の祭祀に奉仕すること。

ただ、実際に斎王が神宮に赴くのは、恒例祭祀のうち9月の神嘗祭、6月と12月の月次祭の「三節祭」に限られていました。

三節祭前月の晦(最終日)、斎王は5月と10月は近隣の川(斎宮跡の西を流れる祓川)、8月は尾野湊(斎宮より7~8キロ離れた大淀の海岸)にて禊に挑みます。

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神嘗祭は、新穀を初めて天照大御神に奉り、恵みに感謝を捧げるお祭り。

明治時代の改暦後は10月に行われています。

神嘗祭の中心は、特別な神饌「由貴大御饌(ゆきのおおみけ)」を奉る儀式と、勅使が参向して幣帛を奉納する「奉幣」の儀式になります。

こま狐
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月次祭の儀式内容は神嘗祭とほぼ同様

三節祭は、豊受大神宮(外宮)では各月の15・16日、皇大神宮(内宮)では1日後の16・17日に行われていました。

そのうち斎王が奉仕したのは2日目の奉幣の儀で、16日は豊受大神宮、17日は皇大神宮に参向します。

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つまり、斎王の奉仕は両宮を合わせて2日、年間でわずか6日でした。

一方で、斎王が神宮に参向する行程は3泊4日。

斎宮と離宮院、離宮院と両宮を往復するもので決して短い距離ではありません。

「離宮院」は、斎王が神宮に参向する際に宿泊するための離宮で、場所は現在のJR宮川駅付近、約15キロ離れた斎宮と皇大神宮のほぼ中間に位置していたそうです。

豊受大神宮と皇大神宮に向かう際は離宮院を発った後、宮川と五十鈴川で禊をしてから参入。

祭儀に挑んだ後は再び離宮院に戻って宿泊し、翌18日に斎宮へ帰還しました。

こま狐
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そのため、奉仕の日数よりも移動にかける日数のほうが多かったのです。

なお、斎宮はかつての神宮の神領「神群」の西端に位置していました。

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斎宮が、なぜ神宮からこれほど離れた場所に置かれたのか?

正確な理由は不明ですが、三節祭で斎王が神宮に向かう際、神群内の長い距離を行列することで威儀を示したのではないかと推測されています。

斎王の生活

三節祭での神宮参向や尾野湊での禊を除いて、斎王は斎宮を出ることはありませんでした。

秘書のような役割の命婦(みょうぶ)、身の回りの世話をする乳母、庶務や雑用を行う女儒など40人余りの女性たちにかしずかれ、厳しい斎戒の生活を送ったとされています。

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清浄な空間である斎宮は、四辺に松と柳が植えられ、諸門には榊が立てられました。

官人から雑用係まで、毎月の御卜(占い)に適わぬものは斎宮の出入りが禁じられるほど、厳格な体制が敷かれていたそうです。

穢れを避けるため、仏を「中子(なかご)」、病を「ヤスミ」、血を「アセ」などと言い換える「忌詞(いみことば)」も使用。

こま狐
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そういった環境下で、斎王は斎宮内での多くの神事に臨みました。

毎月1日には、内院にある神殿で神宮を遥拝。

斎宮内では、宮中祭祀の縮小版のような形で斎王による祭祀が行われていたそうです。

正月の拝賀や節会など年中行事も多数ありました

【斎宮における年中行事】
正月元旦、1月7日七種粥、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日重陽の節句等

これらの年中行事とその儀式を併せると、公式な行事は絶え間なく執り行われ、ひとつが終わると次の準備に取り掛かるなど、斎宮内の慌ただしい様子が偲ばれます。

その一方、源氏物語をはじめ、伊勢物語や更級日記などの王朝文学では、斎王の私的で華やかな生活の一面も読み取れるなど、生活実態には多くの謎が残っています。

まとめ

以上、神社検定に出題された”斎王”に関する解説でした。

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消滅から約700年を経て、全貌が少しずつ見えてきた幻の都・斎宮。

こま狐
こま狐

都から離れた広大な斎宮に忌み籠り、神に祈りを捧げる日々を送った斎王。

天皇と神宮との”結び目”として存在した彼女たちの謎が解ける日は近いかもしれません。

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なお、本記事は神社検定サブテキストの『皇室』110号を参考にしました。

斎宮と斎王に関する特集が載っていますので、気になる方はぜひ読んてみてください。

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